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​解説

二本の柱と二つの狙い

本冊子は、Ⅰ「孫文関係日本人人名録」とⅡ「孫文関係在日華僑一覧表(1913年)」の二本の柱から成り立っています。Ⅰの「孫文関係日本人人名録」(以下「日本人人名録」と略記)は、孫文となんらかのかかわりのあった日本人の人名録とそれを補足するための14の表から構成されていて、本冊子の主要部分です。Ⅱの「孫文関係在日華僑一覧表(1913年)」(以下「華僑一覧表」と略記)は、日本政府が孫文を唯一度「準国賓」として待遇した1913(大正2)年2月-3月、日本各地で行われた在日華僑による孫文歓迎会の出席者と、この年に日本各地で結成された国民党支部(交通部)のメンバーのリストです。

Ⅱについては、Ⅱの冒頭で改めて説明することとして、ここではⅠの「日本人人名録」について、すこし説明をしておきたいと思います。

この「日本人人名録」には以下のような二つの狙いがあります。
第一は、孫文を主にさらに黄興、宋教仁、戴天仇(季陶)、陳其美、李烈鈞、居正、張継など孫文周辺の人々等となんらかの関係のあった日本人を可能なかぎり探し出し、整理し、記録しているということです。宮崎滔天、梅屋庄吉、萱野長知、頭山満、犬養毅、山田良政・純三郎、渋沢栄一、南方熊楠、さらには内田良平、北一輝といった人々と孫文と関係については、各種の辞典で取り上げているだけでなく、全集、著作集、研究書や論文が数多くあり、すでに多くの人々に知られています。「日本人人名録」は、もちろんこうした著名な人物も収録していますが、より重視したのは無名の日本人たちについてで、その数は1000名を超えます。ここで「なんらかの」とは、たとえば孫文の家を訪問したとか、孫文と手紙のやりとりをしたとかいうことにかぎらず、孫文の歓迎会や孫文の講演会に参加した、孫文の病気の治療にあたった、孫文の写真をとったというようなケースも含む、ということです。孫文の日常の生活にかかわった人々も分かるかぎり収録しました。ある意味ではうすく、広くといってよいでしょう。これにより孫文と日本人とのかかわりがいかに広かったかについて知っていただくことができるのではないかと思っています。

第二は、この「日本人人名録」は、専門の研究者のためというよりは、もっと広く一般の市民の皆さまに読んで、活用していただけるように工夫したという点です。すなわち、インターネットを通じて、だれでもどこからでもそれぞれの人物について、その根拠となる資料にアクセスできるように努めました。収録したすべての人物についてではありませんがかなり人物についてはパソコンさえあれば簡単に資料にまでたどりつけるようにしています。その方法については、凡例のところで具体的に説明します。

対象とした時間的範囲

この「日本人人名録」に収録した日本人とは、1894年から1931年までの37年間に孫文となんらかの関係をもった日本人ということですが、これは、次の3時期に区分されます。
(1) 1895年11月以前(日本亡命以前):さしあたり菅原伝、中川恒次郎そして梅屋庄吉の3名です。
(2)1895年11月から1925年3月:孫文の最初の日本亡命から、死没までの約30年間、孫文は多くの、そしてさまざまな日本人と関係を築きました。「日本人人名録」に収録した人物のほとんどはこの時期の人々です。
(3)1925年3月から1931年:孫文没後の追悼会、「奉安大典」への出席者、梅屋庄吉による孫文像の製作と中国各地での設置などに関わった人々です。

資料と研究の歩み

孫文の有力な支援者であった萱野長知の著書『中華民国革命秘笈』(帝国地方行政学会、1940年)のなかに次のような一節があります。

「先年胡漢民が中山の日本知己の名前を調べてほしいとの事であった、それで本書に之をのせるべく再び調べたれば三百人近くあった。外に予等の関知せざる人も多数あるかも知れぬので這回は之を記載せぬことにした。」(59頁)

ここで萱野があげている「三百人近く」という数字が孫文と関係を有した日本人の数の目安としてこれまで伝えられてきたといってよいかと思います。ただし、萱野自身が本書のなかで挙げている日本人は約150名です。ところで「孫文・日本関係」の人名については、戦前のものとしては黒竜会編『東亜先覚志士記伝』(1936年、復刻=1966年)と東亜同文会編『対支回顧録』(1941年、復刻=1973年)が参照すべきものとしてあり、それぞれ約1200人もの人物を収録しています。今となっては貴重な記録ですが、どちらも孫文との関係者に限定されたものではありません。

戦後はどうだったでしょうか。孫文と関係した日本人の人名録の作成作業は、日本でも1950年代に杉山竜丸「中国革命関係者日本人略歴書(名簿附属)」のようなリストの作成もありましたが、主には陳固亭、陳鵬仁氏ら台湾の研究者によって進められてきました。それぞれ貴重な仕事でしたが、本冊子との関係でいえば、なんといっても外務省外交史料館所蔵の「各国内政関係雑纂 支那ノ部 革命党関係(亡命者ヲ含ム)」(以下『雑簒』と略記)の公開とその利用が一つの画期となりました。全19巻のこのファイルは、1897年から1923年にわたる期間、日本の外務省、内務省、道府県知事など所轄の外事関係機関が、孫文ら「要視察外国人」を追尾(保護)した結果に関する克明な指示・報告の文書群です。もちろん、これは、記述が彼ら外事関係者の関心のあった側面に、また「視察」が可能であった範囲に限定されるという特殊性と限界があります。また、このファイルには、1913(大正2)年2月から3月の時期、孫文が「準国賓」として日本各地を回ったときの記録は含まれていません。なぜなら、この時孫文は「要視察人」ではなかったからです。しかしながら孫文の日本における行動のかなりの部分は、本資料によって詳細に跡づけることができます。そしてこの資料を本格的に活用した最初の仕事は、藤井昇三『孫文の研究―とくに民族主義理論の発展を中心として―』(勁草書房、1966年)ですが、より詳細な活用は、『宮崎滔天全集』(平凡社、1971-1976年)の編纂の過程、特に近藤秀樹氏の作成した「宮崎滔天年譜稿」(第5巻所収)においてであったといってよいでしょう。

しかし、『雑簒』の全面的利用は、1980年代、改革開放時期を迎えた中国の歴史研究者によって進められることになります。兪辛焞編『孫中山在日活動秘録(1913.8-1916.4)日本外務省档案』(南開大学出版社、1990年)はその嚆矢であり、段雲章『孫文与日本史事編年』(広東人民出版社、1996年、増訂本=2011年)、李吉奎『孫中山与日本』(広東人民出版社、1996年)はこうした兪氏の仕事を発展させたものといえます。また、陳錫祺主編『孫中山年譜長編』(中華書局、1991年)も、段、李、林家有3氏が中心になって編纂・執筆されたものであり、『雑纂』所収の文書が数多く参照されています。ちなみに、段著、李著に登場する日本人はそれぞれ700、650名であり、『孫中山年譜長編』のそれは約130名です。兪、段、李、林各氏の仕事は、私たちにとっても大きな刺激になりました。なぜなら、『雑纂』全巻をこれだけ詳細に読み、整理して読者に提示したものは、日本では先の近藤秀樹氏の「宮崎滔天年譜稿」以来なかったからです。

日本人としても『雑纂』の中味をもっと一般に紹介する作業が必要なのではないだろうか。これが、私たちがこの「日本人人名録」の作成を思い立った理由の一つです。加えて、上述の中国人研究者の著書には残念なことに索引がなく、孫文の関係者として全体的にどのような人々が取り上げられているのか、どこを見れば探している目的の人物にたどりつけるのか容易ではありませんでした。専門の研究者だけでなく、一般の日本人が、孫文と関わった日本人について簡単にアクセスできるようなリストを作成しよう、というのが本冊子の作成を思い立った強い動機でした。

一方、この時期の日本人による研究として特筆すべきは上村希美雄氏の『宮崎兄弟伝』(葦書房、熊本出版文化会館、1984-2004年)です。これは、宮崎滔天を中心に、八郎、民蔵、弥蔵の4兄弟の生涯を軸に、孫文をはじめとする中国の革命家たちとの交流、日本人志士たちの活動を描いた全6巻の大作です。時代は、幕末から昭和の初めー中国の歴史では清末から民国前半―に及び、登場する日本人は実におよそ2608人(中国人など外国人も含めると3673人、第6巻、477頁)にもなります。もちろん彼らがすべて孫文と関係していた人々ばかりというわけではありませんが、貴重な写真、詳細な注釈なども含め、大変な労作であります。しかも膨大な人名目録もついていて、本「日本人人名録」作成に当たっては大変参考となりました。もう一冊は、中村義・藤井昇三・久保田文次・陶徳民・町泉寿郎・川邊雄大編『近代日中関係人名辞典』(東京堂出版、2010年)の刊行です。「明治から昭和にかけての約80年間の日中関係史に登場した日本人について、歴史に刻印した足跡を辿」(2頁)ったものです。本書に収録されている人物も、孫文と関係を有した人々ばかりではありませんが、収録者の総数は約1200人にも及び、本「日本人人名録」作成にとって有力な武器となりました。ただ、惜しむらくは本書にも索引がありません。

いずれにせよ以上のような先人たちの仕事なしには、この「日本人人名録」の作成は、はるかに困難なものとなったにちがいありません。

インターネットによる検索

本「日本人人名録」に収録した人物については、可能な限りインターネットで検索できるように留意しました。これは、アジア歴史資料センターの電子資料によっています。

アジア歴史資料センターは、1994年8月の村山富市首相の「平和友好交流計画」に関する談話に基づき、具体化され、国立公文書館の施設として2001年11月に開設されました。センターは、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所の所蔵する近代日本とアジアに関する公文書を、デジタル化して公開する作業を精力的に進めてきました。「日本人人名録」作成に際して依拠した最も基礎的な資料は、先に述べたように、外務省外交史料館所蔵の『雑纂』ですが、幸いにして『雑纂』は、アジア歴史資料センターにおいてすでに全巻デジタル化されていて、インターネットを通じて目的の資料にアクセスすることが出来るようになっています。本「日本人人名録」の作成に当たっては、このセンターの資料を大いに利用させていただきました。『雑簒』に登場する日本人の数は、約1700人に達しますが、本「日本人人名録」では、『雑簒』とその他若干の資料に基づいて、孫文と黄興、宋教仁、戴天仇など孫文の周辺の革命家の人々となんらかの関係を有する日本人をリストアップしています。その数は1000名を超えています。これらの人物を検索する方法は、いろいろありますが、本「日本人人名録」では、その内の約750名については当該人物に関する情報を載せている資料(主に『雑簒』)にダイレクトに到達できるように、アジア歴史資料センターの資料のレファレンスコードとページ数を一人ひとりの典拠欄に明記することによって、インターネットさえ利用できる人なら、地球上のどこにいても目的の人物に関する資料に簡単に到達できるようにしました。

こうして本「日本人人名録」により、研究者だけでなく、一般の市民が、自宅のパソコンによって目的の人物を簡単に検索できるようになっています。国立公文書館や防衛研究所の所蔵資料についても同様の方法で検索できますが、これらの研究所や文書館の資料に基づいて本「日本人人名録」に収録した人物は多くはありません。今後の課題と考えています。

付表について

「孫文・日本関係」をより広い視点から理解していただくために 14の付表を用意しました。この表には、「日本人人名録」に収録しきれなかった人々も一部含んでいます。両者をあわせ全体像をつかんでいただければと思います。

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