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常設展について

みなさまへ

 

 孫文(1866-1925)は近代中国の偉人です。当館では、「孫文の生涯」「日本と孫文」「神戸と孫文」「呉錦堂とその事業」と「移情閣」の五つのテーマに沿って関連写真パネルのほか、孫文直筆の書やゆかりの品々を展示しています。

 孫文の中国建設の目標は民族・民権・民生という「三民主義」の実現です。中国国内の全ての民族が平等で平和に暮らし、国民が主権者として幸福な生活を送るとともに、世界各国が共存共栄していくことを目指していました。孫文は腐敗した清朝を打倒して中華民国を創立することに成功し、「三民主義」を実現するための重要な一歩を踏み出しました。海外に亡命した孫文が、革命活動の主たる根拠地としたのは日本でした。多くの留学生、華僑、そして有志の日本人がその活動を支援しました。1924年11月、孫文は神戸で「大アジア主義」に関する講演を行い、日本が中国と協力して新しい平和な東アジアを創るよう呼びかけました。

Ⅰ. 孫文の生涯

左:孫文が生まれた広東省の翠亨村

​右:ハワイのオアフ・カレッジに入ったころの孫文(1883年・17歳)

    孫文は中国南部の広東省香山県(現在の中山市)の出身で、青少年時代はハワイや香港で西洋式の教育を受けた。1895年、広州で清朝打倒を目指す武装蜂起に失敗後、神戸に一時上陸し、日本へ亡命した。1905年、東京で中国革命同盟会を創設し、多くの同志を得た。

 1911年、武漢での蜂起が全国的な呼応を得て(辛亥革命)、中華民国の創立に成功した。1913年3月、孫文は日本を公式訪問し、多くの友人と交流したが、同年8月、国内の政争に敗れた彼は再び日本への亡命を余儀なくされた。

 1914年、中華民国の再建を図るため、孫文は東京で中華革命党を創設した。1924年11月、孫文は神戸を訪問し、市民に対して「大アジア主義」に関する講演を行った。翌年3月、北京で逝去した。

1912年、臨時大総統孫文を迎えて臨時参議院玄関での記念撮影

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​Ⅱ. 日本と孫文

   孫文は革命運動に奔走した30年のうち、およそ9年間、日本に滞在し、活動した。孫文にとって日本は活動の拠点であった。中国革命同盟会(1905年)や中華革命党(1914年)は東京で創設された。多くの日本人は孫文の日本亡命を助け、その理想に共鳴し、私財を提供したり、なかには命をささげた人もいた。宮崎滔天、梅屋庄吉、萱野長知、山田良政らは、孫文の革命活動に私財や身を投じた。犬養毅、頭山満は孫文の身を守り、政府各方面に働きかけた。

 財界では渋沢栄一らが孫文の建設事業に協力し、学界では博物学者の南方熊楠が1897年にロンドンで孫文と親交を結んだ。晩年の孫文は日本の東アジア政策には警戒と批判を抱くようになりながらも、日中の平等な提携の希望を抱き続けた。

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1912年6月、孫文らが日本人の支援者を招いて上海での記念撮影

孫文と梅屋庄吉夫妻

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1913年3月、常盤花壇での孫文歓迎会、神戸の有力者が一堂​に会している

Ⅲ. 神戸と孫文

   孫文の日本での活動の場はおもに政治と経済の中心である東京や横浜であったが、海運の重要な窓口であった神戸にも、孫文は多くの足跡を残し、計18回神戸を訪れている。

 1895年11月、孫文が最初に訪れた日本の地は神戸であった。1913年3月、孫文は日本に公式訪問する際に、13・14日は神戸を訪れ、神戸華僑や日本の各界と交流を深めた。神戸華僑の中でも、呉錦堂、王敬祥、楊寿彭らは孫文の革命活動と経済建設の構想に協力を惜しまなかった。同年8月、中国国内の政争に敗れた孫文は再び神戸に上陸し、松方幸次郎、萱野長知、三上豊夷らの奔走によって諏訪山にあった常盤花壇別荘で一週間の潜居を経て、東京へ移り、活動を続けた。

 1924年11月、神戸を訪れた孫文は瀧川辨三らの計らいで、数千人の民衆に対して「大アジア主義」に関する講演を行い、多くの人に感銘を与えた。それは孫文による最後の来神であり、孫文と神戸との関係のハイライトでもあった。

1924年11月、「大アジア主義」を講演中の孫文

Ⅳ. 呉錦堂とその事業

   呉錦堂は中国浙江省慈溪県(今は寧波市に属す)の出身で、本名は作鏌という。1885年、長崎に渡り、1890年大阪、神戸に移住し、怡生号を創業し、貿易、海運業のほか、セメント、紡績、マッチ、炭鉱、金融業などにも進出し、成功を収めた。

 1904年、神阪中華会館が法人化した際に、麦少彭、王敬祥らとともに出資し、その土地を買い取った。彼は神戸市西区小束野地域の開拓に尽力し、故郷の慈溪県では学校を設立し、地元の人々と協力して水利事業にも力を注いだ。

 1913年3月14日、呉錦堂は舞子にある松海別荘で孫文を迎え、神戸の華僑や経済界有志とともに歓迎の昼食会を開いた。1917年、神戸日華実業協会の設立にも力を尽くした。孫文が亡くなった翌年、1926年に神戸で病没、その墓は故郷の白洋湖畔にある。

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1913年3月、呉​錦堂別荘での歓迎昼食会後の記念撮影

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移情閣

   移情閣は神戸華僑の豪商呉錦堂(1855-1926)が舞子の松海別荘に隣接して1915年に建てた三層八角の楼閣で、木骨コンクリートブロック造の建築物である。廉泉撰、呉芝瑛書の扁額「移情閣」は、中国古典の故事を引用し、その景観の美しさを詠っている。そのほか、名士張謇、王震らの題字もその風情を彩る。戦後、転々と移管された移情閣は、最終的に兵庫県に受贈され、修繕・復原後は孫文記念館として一般公開され、現在に至っている。(詳細は「孫文記念館(移情閣)紹介」を参照)

移情閣扁額

Ⅴ. 移情閣

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